三浦義明坐像(国重要文化財指定

 三浦義明坐像

 義明は後三年の役で八幡太郎義家に従って有名をはせた義継の子で治承4年(1180)頼朝が平家追討の旗上げのさい源氏側に立ち、同年8月27日平家勢の攻撃をうけ衣笠の地で89才を最後に戦死した。義明追福のため建立したのが満昌寺でこの寺の守護神として義明の像を御霊神社にまつる。
 像は寄木造り、玉眼、衣冠束帯の形姿である。長い顎ひげをはやした顔は、気迫のこもった老武将の表情を巧みに表現しており体軀も両肩を張り豊かな量感をそなえた優作である。像高97.5センチ。


御霊神社

 本堂背後にある大介義明の霊社であり、当山の鎮守である創建は、建暦2年(1212)で和田義盛によってなされたと伝えられている。
 義明の木像を安置している。寛延2年(1749)三浦志摩守義次が社殿を修補したものである。この時、社のそばを掘ったところ、鎖帷子が現れたので義明が着用したものではと寺宝になっている。
 昭和53年、木造の旧社殿の破損が甚しいので、鉄筋コンクリート造りの現社殿とし宝物殿もかねている。


伝 三浦義明廟所(横須賀市指定史跡)

 三浦義明は、治承4年(1180)源頼朝の旗上げに呼応し平氏側と合戦したが、8月27日に衣笠城で討ち死したといわれる。
 墓域周囲の土塀は、寛延2年(1749)に三浦志摩守等三浦同族の修理により、中に義明の墓といわれる宝篋印塔を中心に、右側に五輪塔、左側に板碑の三基が並び置かれている。
 五輪塔は、総高70センチメートルの凝灰岩製で鎌倉末期の型式をとる。水輪上部には納骨穴が穿たれ、空風輪は後補である。
 宝篋印塔は、総高82.8センチメートルの安山岩(伊豆石)製で、鎌倉末~室町期の型式をとる。九輪と基台は後補である。四面に金剛界四佛種子を彫る。新編相模国風土記稿に「五輪塔一基社の背後にあり、大介の首塚と言う。是を奥院と称す。」とあって、義明墓を五輪塔としているが、五輪塔が宝篋印塔にかわったのか誤記か不明である。現在では宝篋印塔を義明、五輪塔を義明の妻、それぞれの供養塔と考えるのが一般的である。
 (三浦氏の墓域は、清雲寺や薬王寺跡の例のように、凝灰岩製の五輪塔が中心になっているのが本来の姿のようである。
 板碑は、塔身高140センチメートルの縁泥片岩(秩父石)製で、賛字(サ 観世音菩薩の種子)及び銘文を刻字した薬研彫(断面がV字型の彫り)の力強さから鎌倉末期の作と考えられる。
   昭和48年1月指定


本尊華厳釈迦像(市重要文化財指定

 
 本尊華厳釈迦像

 宝冠釈迦如来像は満昌寺本尊で、髪を高くゆいあげた頭部に銅製の宝冠をいただき、禅定印を結ぶ、高さおよそ36センチの坐像である。目鼻立ちの輪郭があざやかな面部は張りを失わず、体軀も量感がある。着衣のしわはやや太くて柔軟さに欠けるが、宋元風の装飾性をよく伝えている。
 室町時代(14世紀後半)の作品と考えられる。
   昭和57年4月指定










天岸慧広坐像(市重要文化財指定)

 
 天岸慧広坐像

 仏乗禅師と称し、天岸慧広と号した。武州(埼玉県)比企郡の人、13才で建長寺の仏光国師無学祖元について得度。のちに那須雲厳寺の高峰顕日に学び、鎌倉に戻って円覚寺第一座となった。元応2年(1320)中国へ渡り古林清茂・清拙正澄についた。正中元年(1324)足利家晴が鎌倉報国寺建立にさいし招かれて開山となり、翌年63才で入滅した。当山が臨済宗に改宗する時の中興開山になった。著書に「東帰集」がある。
 当山におまつりしてある禅師像は、寄木造り、玉眼、その形姿は曲彔に椅座し、右手に払子をとり、通形の頂相彫刻ではあるが、特に頭面部の個性的な風貌を写実的にとらえており、禅師の歿後間もない頃の制作ではなかろうか。像高76センチ。









如是庵・竹静庵

 
 如是庵
 
 庭園「蓬莱庭」

 臨済宗の祖、栄西禅師が茶の種を宋よりもたらし、茶を修行の道に行茶として使い、千利休も大徳寺に禅を修め茶の効用を得て「わび茶」を確立し、茶の簡素化とともに内面的精神的に昇華し、一個の特殊な芸術に練り上げ、茶を大成し定式化した。孫の千宗旦は「茶禅一味」をものし、茶と禅の一体化を完成した。禅宗では仏に供茶することから儀式がはじまる。仏に供え、客に手向け、そのお流れを自ら戴くという「茶の極意」を伝えたのである。
 当山の庭園にある「如是庵」「竹静庵」はその茶禅一味を学ぶため、禅寺の隠寮としての茶室である。裏千家教授である第30世住職の創草である。




トップページ